はじめどんのつぶやき

 広島市生まれ

しがないサラリーマン

妻とは大学時代に出会う

ビールと家族をこよなく愛している

好きなもの 仏像・城・カープ・ガンダム・相撲

キライなもの 段差



幼稚園死闘編②「幼稚園か保育園か、それが問題だ」

前回にも書いたことと重複するが、在宅生活に入ったとはいえ、息子が外へ出かけるのは土日祝日の数時間程度だった。

同年齢の子どもたちとの接点はあまりにも少なかった。

 

息子の人生に一度しかないこの時期を無駄にしたくはないと思い、何とか子どもたちとのかかわりを持たせたいと願った。

 

そこで就学前活動となるのだが、未就学児には大まかに2つの選択肢がある。

幼稚園か保育園かである。今日では両方の機能をあわせ持つ認定こども園もあるが、当時は幼稚園か保育園が一般的だった。我が家の近所には公立の幼稚園も保育園も両方あった。

バクバクの会の先輩方は看護師配置のある保育園を選ばれるケースが多かったように思う。

わが家もどちらにするのか、戦略を練りに練った。念頭にあったのは小学校入学だった。

息子のように医療的ケアの必要な子どもは、入学時にも壁があることが分かっていたので、

小学校にすんなり入学するために、管轄が同じ教育委員会である幼稚園を選択した。

作戦が決まれば行動開始と、入園年齢の一年前の春から(広島市立の幼稚園は2年保育が原則のため4歳入園)、未就園児対象の親子教室(月2回程度)に通い始めた。息子は初めてのお友達の中で、おっかなびっくり、こわごわ物珍しそうに周りをうかがっていたり、時にはにこにこしたりしていたようだ。と、同時に、幼稚園や周りの子どもたちや保護者の反応を見てみたが、そう悪い感じではなかった。

運動会では、未就園児かけっこに私と一緒に参加し、短い距離だが風を切って走った。ゴールした時に年上の在園児さんからメダルを首にぶら下げてもらい、達成感と高揚した様子の我が子を見ると、なにがなんでもこの子にこの環境をあたえてやらねばなるまいと決意を新たにした。

 

親子ともどもワクワクしながら、11月に入園願書を提出し、そして事件は起こった。

幼稚園死闘編①「虎に翼」

息子が家に戻って、生活のリズムも出来あがってきた。

方々に出かけたりして、家族で在宅で生活することに対して自信も少しづつついてきた。

そろそろほかの子どもたちと遊ばせてやりたいと思っていた。

妻が療育園に問い合わせた。「人工呼吸器をつけているのですが、通えますか?」

と言うと、担当者が「それは大変なことですね、こちらでは何もできることがありません」

と、にべもなく断られてしまった。

今現在は障害者差別解消法もあり、さすがに門前払いはないと思うが…

 

これで妻の闘志に火がつき、「よし、専門機関が断るなら、地域で育てよう」と決心したそうだ。それまで、私たちは、どちらかというと、息子のような「重症児」こそ「療育」といった枠組みで育てるべき、と考えていた節があった。それがこのような扱いを受ける。「療育がなんぼのもんじゃい」と反転したとて、不思議はなかった。

 

わが家ではもともと地域の幼稚園、保育園から小中学校へと考えていた。この事件はその方向性をはっきりとさせてくれた。後に療育園とのやり取りを思い返したとき、療育園はよくぞ断ってくれたもんだ。我が家を「虎に翼をつけて野に放ち」やがったなと感じた。

息子が外へ出ようとして初めて、世に言う「障害者と世間の壁」に直面した出来事だった。

 

改めて言うが、障害というバリアは、当事者の側ではなく、社会のほうにこそあるのである。

息子のように人工呼吸器をつけて車いすに乗っていても、地域の学校に通う。

この大前提の元に我が家の就学前活動がはじまった。

西日本豪雨災害ボランティア

西日本を中心とした豪雨による災害におきまして、被災された皆様にお見舞い申し上げます。

 

7月の三連休、はじめどんのつぶやきをアップするべく準備していると、友人から電話があった。飲みにでも行く誘いかと思っていると、力ない声で親せきが土砂災害で被災しており、土砂を除く手伝いをしてくれないかという依頼だった。特に予定もなかったが、事務仕事しかしていない私では大した戦力にならないかもしれないとは思ったが、少しでもお役に立てるならと思い直し手伝わせていただくことにした。

 

前日に妻と相談して、熱中症と粉じん対策などして早朝から出かけた。テレビなどで見てはいたが、現場は想像を絶する様相を呈していた。クルマが土砂に埋まり、家屋の一階部分は人の背丈以上の土砂が流れ込んでいた。重機もまだ入れず頼れるのは人力だけだった。人力だけだと、報道されているような粉じんは起こるところまでさえも行きついておらず、結果的にはゴーグルやマスクはまだ不要であった。報道がすべてではない。と強く感じた。

 

猛暑の中で、土砂のかき出しと休憩をしながら様々なことを考えた。

 

我が家のような災害弱者は、災害を臆病なほど警戒しなければいけない。そして今までの経験は当てにならない。我が家の居住地広島では4年前にも大規模な土砂災害があった。あの時にも今までに経験のない雨の降り方と雷の鳴り方だった。災害から身を守るには、自然の力を甘く見てはいけないこと。正確な情報を得る手段と知識を持つこと。避難勧告・指示が出たとして、はたして、その段階で自宅から避難するのが最上の行動なのかということも、判断せねばならない。実際に、この度の大雨の時は、居住地域は浸水・冠水している道路もあり、もっとひどく降り、避難指示が出たとしても、頼みの綱の避難所(息子の小学校)に行くよりは、マンション上階である我が家にいたほうが安全であっただろうと思う。のちに聞くと、最終的な駆け込み寺と考えていた大学病院は敷地内があちこち浸水をしていて、主治医の先生が帰宅をためらうほどであったらしい。

 

災害とは、もういつでもどこでも起こり得るものとシミュレーションをして備えるべきものとなってしまった。そして、ある意味そんな備えの中でも、一番大事なのは地域に存在を知ってもらうことかもしれない。今回のボランティア参加では、これらのことを強く強く考えさせられた。

 

最後に被災された地域の一日も早い再建と復興を、心からお祈り申し上げます。

タイガー&ドラゴンⅡ 日曜日よりの使者

二代目キューちゃんドラゴン
二代目キューちゃんドラゴン

まだタイガーが獅子奮迅の働きをしていたころのことだ。吸引器には吸い上げた喀痰を溜めるカップがある。このカップは使い捨てではなく洗浄が必要となる。毎日いや毎回洗浄すればいいのだが、一台しかなく、洗浄中にもしゴロゴロさんが訪れるとすぐに対処できない。そのため私と妻がそろって家にいる日曜日に洗浄していた。

 

喀痰を溜めるので、夏場は、においも気になる。少しでも快適にならないかと思い台所用洗剤を少し入れて作動させると大量の泡が発生して失敗した。洗剤はダメだったので、泡の出ないものを探してみると夏の入浴のときに湯船に垂らして使っているハッカ油があった。

ミントの香りでリラックスできてにおいも抑えられるかもしれないと思い、使ってみた。泡も出ることなく、ミントの香りで満足いくものだった。

 

何度目かの吸引時に吸い上げる力が弱々しくなった。接続やカップの密閉具合を調べてみると、カップの底に細かいひび割れがあった。この時にはカップ自体を長い間交換していなかったのが原因だと思ってカップを新しいものに交換した。

 

次の週の日曜日も同じように洗浄し、ハッカ油も使用した。何回目かの吸引時に、先週と同じ現象が起こってしまった。毎週日曜日に訪れる恐怖。日曜日よりの使者かなどと思っていた。しかし、時をさかのぼって考えてみて、ハッカ油にたどりついた。日曜日よりの使者はハッカ油だった。

 

後でググってみると、ハッカ油はプラスチック製品では保存できません。ボロボロになりますと書かれていた。自らの行為に恐怖し、馬鹿さ加減に涙が出た。

 

この事件から得た教訓は、まさに『生兵法は大怪我のもと』そして洗浄はこまめにしようということだった。

 

そんな策に溺れる小策士の我が家の一員として、今日もタイガー&ドラゴンは、息子の「〽オレの オレの オレの痰をひけー」に呼応して、ドドドォ~‼と馬力あるコーラスを入れてくれるのであった。

タイガー&ドラゴンⅠ

お断り 今回のつぶやきはドラマ、歴史上の人物(甲斐の虎や越後の龍)とは一切関係ありません。

息子の生活必需品シリーズ吸引器についてのつぶやきだ。「習うより慣れろ」(4月16日参照)でお馴染みのゴロゴロさんこと喀痰を吸引するため欠かせないマシンだ。

息子の退院が決まってどのタイプの吸引器にするか検討した。結果はコンパクトで馬力があり、持ち運びできるトートバックキューブに決定した。

 

カバーの色は広島らしく赤系(カープ)か紫系(サンフレッチェ)があればいいなと思っていた。しかし、実際には黄色と黒のリゲインじゃなく阪神タイガースカラーがやって来た。

そしてこの吸引器は、まぁシンプルにキューちゃんと名付けられた。

当初はキューちゃんが1台しかなかったので、息子が車いすに移乗するときには、呼吸器と一緒にもれなく付き従っていた。

 

やがて月日は流れ、キューちゃんもベテランとなった。故障やバッテリーの持ちも悪くなって、往年のような輝きはなくなり、連続出場もキツくなってきた。

一般的には戦力外通告や引退勧告となるところ、我がチームでは、長年の功績を讃えキューちゃんの残留を決定した。主な活躍の場をブルペン(息子の在宅時)へと移し、新しい主戦として、キューちゃん1号の使い勝手が良かったので、同じ機種を1位指名して獲得に成功した。

 

新人はグレーに紺のカバー色で、中日ドラゴンズの旧ビジターユニフォームにそっくりだった。このためドラゴンと命名し、車いす専用としてデビューした。その命名により、同じ吸引器同士のややこしさを避けるためにもキューちゃん1号はタイガーと名を改めることとなった。

 

そしてこの事件は、そんなタイガーが現役バリバリで働いていたころ、カップの洗浄時に起きたのだった。

無限軌道と馬車馬

難敵の砂浜
難敵の砂浜
馬車馬参上
馬車馬参上

今回は文学的なタイトルだが、中身はぼやきです。

 

無限軌道とは何のことはないキャタピラのことだ。車いすにとって大敵は段差・砂・ぬかるみ・

砂利道そして坂などがある。

 

しかし外に出ていけば、これらはそこら中に転がっている。公園・砂浜・神社仏閣などは、ほぼこれらでできている(これぞ偏見)。

 

砂利道しかない場合は前輪を上げてのウイリー走行であったり、後ろ向きで引っ張ったりすることになる。呼吸器その他諸々の装備と息子を合わせて推定60㎏近くになると心が折れそうになることも多々ある。今真剣に考えているのが、車いすにキャタピラが装着できないだろうかということだ。もし可能ならガンタンクだなと笑いをかみ殺すが、悪路での走破性が格段にアップするのは確実だ。

 

極端な上り坂では丈夫な平織ひも(妻によると、ハンドメイドの手提げかばんなどの持ち手によく使うものらしい)を利用して引っ張ることにしている。引っ張っている姿が馬車を引く馬のように見えるので、我が家では「馬車馬(ばしゃうま)」と呼んでいる。当然、引っ張るだけではなく、押し手も必要であるので、馬車馬が登場するときは2人以上の介助者がいることが条件になる。かなりキツイ坂でも登れるが、足腰への負担は半端ないことこの上ない。そして、押し手との呼吸が合わないと、しばしば車いすの前輪にひかれてしまう。

 

車いす利用者が外へ出て行くには、多かれ少なかれ創意工夫と、社会全体で取り組む合理的配慮が不可欠だ。本当の意味でのバリアフリーが浸透して、誰もが暮らしやすい社会になるまで、私と息子と妻は、無限軌道と馬車馬で突き進んでいく所存だ。

緑の騎士 ルビー Ⅱ

実際に現物で合わせてみると、カタログ値ではいけたものが、車のシートと車いすが干渉して所定の位置に乗れないことが判明した。おそらくだが、福祉車両は標準タイプの車いすやストレッチャーベースで作られているので、特殊な形状の車いすや大型のストレッチャーはコンパクト仕様の車には乗らないことが判明した。

 

また、余談ではあるが我が家の購入検討の対象ではなかったが、このころ、爆発的に出始めていた某軽自動車の福祉車両では、なんと乗り込むときに利用する後方スロープの幅が息子の車いすより狭すぎて、そもそも車内への乗り入れすらできないということもあとあとわかった。その後、担当者間で検討を重ねて、シエンタの3列目なら乗車可能であるとの報告があった。もしものときは、運転してないほうの人間が、シートを乗り越え、3列目の息子のそばに行けることも確認した。

 

こうして、やや寄り道はしたが、車種はシエンタに決定した。色は何色がいいだろうとなり、車が7月納車予定で7月の誕生石はルビーなので、カープの赤にと思った。が、当時息子は緑色が好きだったのでグリーンメタリックになった。名前は7月の誕生石ルビーとして「緑の騎士 ルビー」となった。

 

息子を格納して移動するホワイトベースもといムサイ(意味が知りたい方はググってみてください)を得て行動範囲と安全性は格段に向上した。この場を借りて、このとき、文字通り奔走してくださったF社のY氏とTC社のU氏に感謝します。

緑の騎士 ルビー Ⅰ

息子を支える力士たち(車いすのこと1.28 3.4参照)の申請を終え、車での外出が増えるようになると、乗り降りするときにどうするかという問題が出てきた。

 

乗るときは息子を車いすから降ろし、呼吸器と息子を同時に乗せるか、いったん分離してアンビューバッグ(という手動式呼吸器)で押しながら乗せることになる。降ろす時も同様の作業が必要となる。大変に手間もかかるし、呼吸器がゆるんだりして外れてしまわないか、など安全面でも不安がある。

 

やはり、車いすと息子と呼吸器を一度に乗せるのが一番良い、そうなると車を福祉車両に買い替えるのがベストだろうということになった。

 

バクバクっ子必携書の便利手帳には福祉車両のコーナーがあり、車いすのまま乗降できるスロープ、リフトなどが紹介されている。これを参考に、まだ車いすはできていなかったが、福祉車両がどんなものかリサーチするためにディラーヘ行ってみた。実車はなく、数台ある福祉車両のカタログから検討することになった。

 

予算面と、軽自動車しか運転したことがない妻でも不安なく運転ができるだろうということと、それから車いすが助手席うしろの場所まで乗せられるラクティスにしようということになった。車種は決まったものの車いすと車のマッチングが必要なので、車いすの担当者とディラーの担当者が現物を持ち寄って検討してくれることになった。

 

ここで事件が起こった。

緊急‼ 漢(おとこ)祭り

この冬、妻が流行り病(インフルエンザB型)に倒れた。息子に感染しては大変と即別室へと隔離した。

 

その間、息子は日中、学校へ行き(妻が送迎だけはフラフラながらがんばってくれた)授業を受け、帰宅後は訪問看護師、ヘルパーにケアしてもらう。

 

そして、夕方からはオヤジとともに過ごすことになる。私もひと通りのケアはできるので、これまでも妻の外出や宿泊時(法事などで単身実家へ行くこともある)も漢(おとこ)2人で、漢(おとこ)祭りと称して過ごしていた。

 

なので、大して不安感はなかった。しかし、こんな時に限ってゴロゴロさん(4/16「習うより慣れろ」参照)が頻回に登場する。何度か撃退したものの、どうも気道内圧異常のアラームが治まらない。これはカニューレの詰まりが疑われる。こうなればカニューレ交換するしかないのだが、一瞬のうちの手順が多く(4/9「退院準備…見るとやるとは大違い」参照)なにより息子の安全面を考慮し、通常は両親2人がかりで交換する。

 

しかし今回の場合、インフル罹患妻と二人で交換すると多重感染の恐れもあり、耳鼻科医が1人で交換する様子をこれまで何度も見ていたので、1人での交換を決意する。

気分は手塚マンガのブラック・ジャック(大げさだが自分を鼓舞するため)、いま一度、手順を確認、準備を整える。

 

いざ、交換。

 

オヤジの緊張感を感じとったのか、目を大きく見開いてはいたが息子の協力もあり(まさに阿吽の呼吸である)、何とかやりきることができた。事なきを得てホッとした。

 

今回はかなりハードな漢(おとこ)祭りだった。もうインフルならんでや、母ちゃん、という気持ちと、これでもういつなってくれても大丈夫だよ、という気持ちが複雑に絡み合う父子の心境であった。

デンマーク生まれの力士 青龍 赤龍Ⅱ

車いすのタイプも決まり、医師の意見書も出来あがったので、オヤジの重要な仕事でもある役所への申請へ平日休みの貴重な時間を使って出かけた。まぁ書類もそろっているしチャッチャと終るだろうくらいの軽い気持ちで行ったのだが、窓口で書類を提出すると、途端に雲行きが怪しくなってきた。

 

担当者曰く、「車いすはわかりますが、この座位保持車いすはなんですか?」オヤジ「室内で利用するものです」担当者「車いすが2台も必要ですか?だいたいうちの区では2台同時なんて前例がありませんよ」オヤジ「え?外で使う車いすを室内では使いませんよ。座面が上下動できないし、そもそも医師が必要と認めているものですよ!」これはほんの一部だが、不毛なやりとりが続いた。今思えば、あんたは室内スリッパで外出するのですか?と言ってやれば良かったと思うくらいである。

 

役場はなんでもかんでも前例ありきである。前例がなければ動けないのか。すべてのことになんでも「初めてのケース」があることを知らないらしい。何とか押し切ったが、行政との交渉に不慣れな人は心が折れてしまい、申請を変更してしまうのではなかろうか?この何年か後に、我が家でも、妻が役場と吸引器(耐用年数が超えたため再申請時)をめぐるイザコザがまたも発生した。

 

こういった申請についてはほとんどが初めてのことであり、行政側の仕組みもわからないことが多々ある。制度は一般の人間にとって、非常に難解で複雑な仕組みになっている。そのため、どれだけのエネルギーを使って書類を作成しているのか、ということを役場の人間は忖度して、もっと当事者に寄り添った対応をしてほしい。

 

しかし、こうしてやっと青龍・赤龍が我が家の一員となった。

 

青龍は家の中で、息子の家庭学習(主に学校の宿題)を、赤龍は外の世界でそれぞれ生活を支えてくれている。ともに机を差し込めるので、便利であった。

 

そして赤龍は息子に様々な体験を与えてくれて2017年に引退し、イタリアうまれのアズーロ号が引き継いでいる。

デンマーク生まれの力士  青龍 赤龍Ⅰ

座位保持車いす『青龍』
座位保持車いす『青龍』

今回は息子の生活必需品シリーズのつぶやきです。

 

息子のように肢体不自由であると、外出時には車いすが必需品となる。

そして車いすにもいろいろなタイプがある。オーソドックスな車いすタイプ・バギータイプ・ストレッチャータイプなどである。

 

我が家では当座大きめのベビーカーで代用してきたが、酸素ボンベその他諸々の荷物も載せられないなど不便さがあった。身障者手帳が交付されたのを機に車いすを申請することにした。

 

病院に車いすの申請意見書を作成できる医師がいたので、バクバクっ子必携書『バクバクっ子の為の生活便利帳』を参考にしつつ話し合った。

 

結果として息子にはバギータイプがよかろうということになった。それにプラスして外出用ではなく自宅で利用する座面がアームで上下動する座位保持いす(下部に呼吸器を載せる台がないため外出用よりはコンパクト)も同時に申請することになった。

 

カタログを見て車いすは赤色ベース、座位保持いすは青色ベースに決定した。そしてどちらもデンマーク製であった。

 

道具などに愛称をつける我が家の流儀として彼らにも名前をということになった。海外から来た息子を支える力士的存在ということで当時大相撲で活躍していた朝青龍関(2010年引退)、朝赤龍関(2017年引退)より、座位保持いすを青龍(しょうりゅう)、車いすを赤龍(せきりゅう)と名付けることにした。

 

この青龍・赤龍申請時に事件は起こった。

 

つづく

ベタ踏み坂

写真は昭文社『まっぷる鳥取大山境港』 2016.12.15発行より
写真は昭文社『まっぷる鳥取大山境港』 2016.12.15発行より

みなさまあけましておめでとうございます。今年もぼちぼち書いていきますので、よろしくお願いします。

 

新年初つぶやきは、昨年家族旅行で訪れた 鳥取県の江島大橋での出来事。この江島大橋はクルマのCMに登場し、『ベタ踏み坂』として有名である。観光ガイドなどの写真を見るとまさに壁のように見える。境港の近くなので、水木しげるロード観光のあとに行ってみた。

 

*ネタバレ注意*

観光用の写真は、はるか遠方の海上から撮影されたようで、橋の近くでは、家族で相当いろいろな角度や場所からチャレンジしてみたが、そのようには撮影できなかった。おもしろい写真が撮れると思っていたのに当てが外れてしまい、ちょっと残念な思いはあったが、このことから逆に得るものもあった。

 

息子のように車イスに乗って呼吸器を使っていると、周りの人の目からは大きなバリアー、それこそ壁があるように見えるかもしれない。しかし実際に近くで一緒に過ごしたり、同じ教室で学んだりして、知ってもらうことで、その壁は小さくなり、やがてはなくなる気がする。

 

だから、こちらもどんどん外に出ていく。そして周りの人も巻き込んで『ベタ踏み坂』を乗り越えていこうと家族で確認した。今年も冒険の一年になるだろう。

風を感じて

先日、私の所属する職場の営業関係の総決起集会があり野田聖子総務大臣が出席し、講話があった。冒頭、自身の息子さんのことを語られ、気管切開をして、人工呼吸器や胃ろうにも触れ医療的ケア児が家の近くの学校に通えないのはおかしい。これを何とかしたい。党の枠組みでなく政治家としての思いを語られた。今回は社員の激励と言う名目であったが、冒頭この話があり正直驚いた。

 

この様子をLINEで妻に送ると「バクバクの会のはじめどんです!うちの子も医療的ケア児です!と、大声で叫べ!」と無茶ぶりをされましたが、さすがに大臣ともなると屈強そうなSPがべったり2人もついていて、怖くて声をかけるなんてとんでもないことだし、すぐに帰られたので、果たせずだった。

 

しかし、本題はこの後である。懇親会の歓談の中で、何人もの人が「たしか、お子さんは地域の学校行ってたよね」とか「もう何年生になったかね」とかいろいろ聞かれ、そのたびに「ええ、地域の普通学級に毎日通学しています、3年生になりました」と話した。 

 

毎年の年賀状・暑中葉書で、まわりの人に、報告してきた草の根的な細々とした活動の成果もちょっと感じたりもしたが、今回の野田大臣が医療的ケア児についてお話されたことで、世間の目も少しづつこちらに向き始めているのかなと感じた。行くまでは、3連休の頭にかったるいな、という気持ちで出席した決起集会であったが収穫があって良かった。

 

遅々とした歩みではあるかもしれないが、確実に風は吹き始めている。

もっと家庭からインクリュージョンを

先日、とある重度障害児・者福祉医療施設から「家族介助者教室」の開催のお知らせが届いた。

 

数週間前にここのフェスに参加して、いろんな取り組みをされていることを実感し、バクバクの会としても連携していけたらという感触を持った施設であったので、ちょっと行ってみるかと、日時を確認すると平日開催となっている。土日休みの私は「行かれへんやないかーい」と、軽いノリで突っ込んではみたが、心にはモヤモヤしたものが残った。

 

「家族教室」をうたいながら、主催者は無意識なのだろうが、大多数の平日昼間に仕事をしている父親のことを、結果として「排除」しているように感じられる。これはこの催しに限ったことではなく、「重症児保護者交流会」や「相談会」などによくみられる傾向である。

 

実はこの無意識のうちの排除こそが根が深い。うがった見方をすれば、「重症児・者のケアは母親とは限らないが、平日家にいるものがするもの」という意識があるのかなと感じてしまう。

 

往々にして感じていることだが、息子と一緒に何かしていると、「協力的なお父さんでいいですね、すごいですね」と言われることがある。実際のところ協力的な父親が少ないのかもしれないけれど、私は子育てや家のことに関して、妻協力しているのであって、妻協力しているのではない。

 

社会の側にも家庭の中にも子育てや介護はおもに母親の仕事、と思い込んでいないだろうか?インクルーシブな社会を目指すにはまず家庭内のインクリュージョンも必要じゃないかなと感じる。

ロングドライブⅡ

昼食の後は天気も良かったので、近くの日本庭園「三景園」へ行くことにした。

 

広島空港開港を記念して1993年に造られた面積約6ヘクタールの築山池泉回遊式庭園。比較的新しくできた施設なのでバリアフリー化されてるかなーと思い、行ってみる。

 

メインの通路はよかったのだが、少しわきにそれると砂利道だったり砂地だったりでバギーの車輪をとられてしまいなかなか大変だった。息子と出かける中で、今後もこんなことが数多く出てくるだろうなと予想された。

 

初夏の花々や新緑に癒され、大きな池には鯉がたくさんいて、息子もじっと眺めていた。コーヒーを飲んだりしてのんびり過ごして、気づくと結構な時間が経過していた。

 

呼吸器の残りバッテリーが心もとなくなってきて大慌てで勝手に空港ロビーで充電する。在宅生活初心者の我が家は専用バギーもなく、電源もなくかなりの無茶をしていた。それもこれも在宅で息子が元気になっていることに何とか応えてやりたいという想いと、妻の実家である奈良へ車で行けるのかどうかという不安があったように思う。

 

外出を重ねることで、問題点もわかり、気を付けることもわかるようになった。

ロングドライブⅠ

我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
空港にて
空港にて

在宅生活1か月過ぎたあたりから車で病院以外のところにも行くようになった。

 

息子はこれまで電車や船には乗ったことがあり、今回はまだ乗ったことのない飛行機を見に行くことにした。

 

家から空港まで高速道路を使って約1時間。その往復の2時間とランチや見学時間を含めても、呼吸器の内部バッテリー(3時間半)、外部バッテリー(3時間半)合計7時間もあれば、まったくの余裕だろうと計算して家を出発した。

 

当時我が家の車にはインバーターと言う車の電源を家庭用の電源に変換するモノもなかったくせに「充電が必要なら、空港のどこかでコンセントを借りればいい」くらいの軽い気持ちだった。

 

因みに高速道路の渋滞など全く考慮していない無謀なドライブだった。今思うと冷や汗ものだが、当時は外に出たい思いでいっぱいだったのかなとも思う。が、今でも時々このときのことを思い出しては、くれぐれも無謀なことはしないようにかなりの電源的ゆとりを持つように、と猛省している。

 

道中は呼吸器をつけた息子と初めての高速道路で少し緊張したが、快適なスピードでトラブルもなく空港まで。到着までは眠っていた息子だが、デッキへ行くと飛行機の甲高いエンジン音に目を覚まして、青空へ飛び立っていく飛行機や舞い降りてくる飛行機を不思議そうに眺めていた。

 

つづく

マーゲンチューブ哀歌Ⅱ

わが家ではこの儀式は日曜の午後3時となぜか決まっていた。その時が近づくと、家族全員、憂鬱な気分になった。

 

鼻チューを抜くのはすぐ抜けるのだが、入れるのはなかなか入らない。ひとりが息子の頭を押さえつけて、動かないようにし、もうひとりが息子の上にまたがって、片方の鼻の穴から、鼻チューを入れる。

 

これだけのことだが、一方は逃れようと精いっぱい抗い、かたや、彼を動かないように必死で押さえる。失敗すると、反対の鼻の穴から鼻チューが出てきて、ドキッとする。

 

痛くて気持ち悪いのだろう、鼻から入れる胃カメラのような感覚だと思う。後にバクバクの先輩平本歩さんも著書『バクバクっ子の在宅記』(現代書館2017/8/15発行絶賛発売中)に「痛かった、涙が出た」と書かれていて実際に、自分で体験してみようとしたが、やらなくてよかった。息子よスマン。

 

とにかく毎回、双方、汗だくの攻防であった。最後に、マーゲンチューブの先が、胃に届いているかどうか、シリンジで実際に空気を入れて聴診器で確かめる。きちんと胃に到達していれば、空気を入れたとき、バフっと音が聞こえる。ちゃんと入っている音を聞くまで悪戦苦闘していたのが、今となってはいい思い出だ。

 

今、息子は胃ろうというシステムを採用しているので、このいさかいの元の鼻チューとは3歳でおさらばした。

 

またその話は、別の機会ということで。

マーゲンチューブ哀歌Ⅰ

在宅生活に移行し、医療的ケアも自分たちで行うようになった。ケアの横綱が痰の吸引とするならば、大関は経管栄養になるのではないだろうか?

 

息子の場合は、在宅当初、鼻からマーゲンチューブという細い管を胃まで入れてそこから栄養や薬・水分を摂取していた。

 

普段は鼻の穴から、マーゲンチューブ(うちの家では鼻チューブを略して、鼻チューと呼んでいた)だけの状態となる。抜け落ち防止のため鼻や頬にテープで固定する。

 

病院などでは固定テープを看護師さんがアニメキャラクターや動物のイラストなど描いて、可愛くアレンジしてくれていた。が、私とすれば、パッと顔を見たとき、このマーゲンチューブが目立つあまり、ともすれば人工呼吸器よりも、重病感を醸し出すような気がして、どうも好きになれなかった。

 

また息子からすれば常時鼻の穴からチューブがぶら下がっているので、気になって触ってしまう。朝ご飯支度の後、我々親が二度寝をしたすきに、息子が自分でこの鼻チューを引き抜いてしまったことがあり、ベッド中が栄養剤まみれになっていて、起きたとき気づいて途方に暮れたこともあった。

 

そんな鼻チューの交換が1週間に一回あるのだが、(あと、薬などが詰まるとこれまた入れ替えが必要となる)これが、親子お互いにとって苦行と言うか地獄と言うか、親子間の戦争、そんな有様だった。

お花見散歩

退院した翌日には、これまでの入院生活でなかなかできなかった、息子と外出することにした。これにはベッドから息子と呼吸器をベビーカーに載せる訓練の意味合いもあった。

 

息子が乗るベビーカーに、全部の装備は積み切らなかったため、念のため持ち歩く酸素ボンベは、別に荷物カートに載せて、ベビーカーを押していない私が、ころころと転がして歩く。

 

外出には、やはり当面2人以上の人の手が必要だ。

 

近所の川べりの桜が満開だったこともあり、春風の中を出発した。息子もベビーカーの手すりに足をかけてご機嫌だった。

 

しかし、すれ違う人、こども達の好奇な視線や憐れみの視線そんなものに直面する。こちらに何の免疫もないため正直辛かった。

だからといって家に閉じこもっているのも変だと感じていた。後々いろいろな経験を通してうまく説明できるようなったが、これはかなりのストレスを感じた。

 

ハード面、ソフト面、両方のトレーニングということもあり、妻と話し合って、これからはなにもないかぎりは、できるだけ、週末土日のどちらかはおでかけをしようということになった。

退院の日

在宅生活に向けて、さらに数回のカンファレンスがあり、ついに退院の日が決まった。退院は決まったものの、在宅生活は、ほぼ手探りの状態だった。

 

ここで夫婦間での役割分担を明確にした。

制度面や行政の手続きなどは私がやり、訪問看護さんヘルパーさんなどの関係は妻が担当することになった。

 

仕事柄、申請など書類仕事はやりなれてるから、まあ、私のほうが適任だろう、それほど面倒はなかろうと思っていたがこれがなかなか大変で…この話はまた後ほど。

 

春だ。4月に入り桜も咲き始めていた。

そして待ちに待った退院の日を迎える。

 

さんざんお世話になった病棟の先生や師長さん看護師さんたちと記念撮影をして、自宅に帰ってきた。マンションの駐車場では、これからお世話になる訪問看護ステーションの所長さんがすでに待ち構えてくださっていた。これからは両親だけでなくいろいろな人の知恵やパワーを集結して、ここで生活していくんだなーと思った。

 

久々の自宅に息子はどう感じていただろうか?

ドキドキ外泊

アラームの音は注意喚起のためもあり不安になるような音であるが、初めて自宅で聞くアラーム音はことさらドキッとさせられた。原因は夜中に吸引したあと、カニューレとフレキシブルチューブの接続が甘かったことにより、接続部分が外れかけていたことだった。気をつけているつもりでも、このようなことが起こってしまうのだなと改めて反省した。

 

そんなヒヤリハット体験をしたが、あっという間に時間は過ぎて病院へ戻るときが来た。車へ乗せる時や、機器のセットを病院を出るときよりも慎重に慎重に行った。何事もなく病院に戻ることができたときには、正直ホッとした。息子の状態は、安定していたものの、両親は精神的にも肉体的にもヘトヘトだった。

 

 しかし自宅に帰れたことは大きな自信となった。

 

こうして、ドキドキ外泊を無事終えることができた。

我々は帰ってきた

帰ってきた。

一時外泊とは言え、夢にまで見た自宅に帰ってきた。息子にとっても久々の自宅。

 

家族3人、自宅に無事たどりついて、移動時の不安からは解放されたが、まだ何が起こるかわからない状況には変わりない。

というか、それどころか仮に何か起こっても、主治医も看護師さんもいない。自宅に帰って家族で一緒に生活する。その想いはあったし、そのつもりで訓練もしてきた。しかし、いざ現実に在宅生活が目の前に迫り、そのプレッシャーは想像を絶するものがあった。

 

ともあれ、自宅に帰り、息子の状態も落ち着いて、一家だんらんの時をすごした。うれしかった。これで何とかやっていける。夜は心身の疲れですぐ眠ってしまった。

 

しかし、翌朝呼吸器からアラームが鳴り響く。

ついに外泊へ!

院内外泊を無事に終えると、遂に主治医から外泊OKの許可をいただいた。

 

呼吸器の乗せられるベビーカーがなかったので、急遽イオンなどで探す。もちろん両親二人が病室を離れるわけにいかないので、かわるがわる見に行き、検討し、購入した。また息子が、昼間リビングで過ごすためのスペースとして、ユニット畳に落下防止用のガードを自作する。

 

いよいよ自宅への外泊。呼吸器メーカーの方が車で付いて来てくださり、息子を乗せて自宅へ向かっている途中で事件が起こった。

 

突然呼吸器からアラーム音が鳴り響く。

 

アラームの音に連れて、体内の酸素濃度がどんどん下がってきたようで、息子の隣に座っていた後部座席の妻が慌てている。車を安全なところに停めて、様子を見る。どうやら人工鼻(という加湿器の代わりとなる部品・通常、回路の途中にはめこむ)がうまく機能していないことを呼吸器メーカーの方が指摘してくれて発覚し、人工鼻を外すことによって、とりあえずの事なきを得た。(この場合、自宅に到着するとまた加湿器に繋ぐことができるため、15分ほどの離脱で済んだが、この状態で長時間過ごすと、気道内が乾燥し、痰が粘っこくなり、閉塞の危険性もある)

 

しかし何が起こるかわからないということは十分にわかった。

 慎重な運転で、自宅にたどり着いたときにはホッとした。

院内外泊の効果

 『院内外泊』聞きなれない言葉だが、病院内にいながら外泊と同じ状態で過ごすことである。

 

退院準備の一環で、まずは病室内で、本当に緊急的な必要な時以外は医療関係者は一切来ない、いわば自宅と同じ環境にして、きちんと家族だけで生活できるかという訓練である。

 

これまで教えて頂いた、医療的ケア、痰の吸引、経鼻栄養の注入、万が一カニューレやマーゲンチューブ(鼻から胃へ通しているストロー状のもの)が抜けてしまったときの対処法等頭の中を整理した。

 

不安な気持ちはもちろんあるが、それを小脇に抱えて「自分たちはやれる」と自己暗示をかける。一つ一つハードルをクリアしなければ、息子と一緒に家で生活できないと思い、必死だった。

 

そんなこんなで迎えた院内外泊であったが、大きなトラブルなく乗り切ることができた。ひさしぶりの家族水入らずの1日を楽しむという余裕はまったくなくて、夫婦ともども緊張と達成感でへとへとになったことをよく覚えている。

今となっては、当時は随分力んでいたなぁと思うが、不安をつぶしていくには院内外泊の効果は絶大だった。

習うより慣れろ

身の回りのケアの仕方も覚えつつ、息子が家に帰るために避けては通れない医療的ケア。その筆頭ともいえるのが、たんの吸引。

 

病院で看護師さんが実施する場合は、滅菌手袋を取り出すところから始まり、個装の水の封を切ったり、カテーテルの開封など、その都度その都度やることが多い。自分がやるとなると、こんなにたくさんのことをやっていると、息子がゴロゴロ(我が家では痰のことをゴロゴロさんという愛称で呼んでいる)と痰が上がってきていても、すぐに吸引して、すっきりさせてやれないんじゃないかと、不安になった。

 

今までの人生で、カニューレから蛇管を外して痰の吸引なんて、見たことも聞いたこともない未知なるもの。(息子が呼吸器をつけてから見聞きすることのほとんどがそうなのだが)両親が吸引に慣れるためには、不安であろうが、練習をしなければならない。ゴロゴロ言い出すと、看護師さんを呼んで、目の前で見てもらいながら、吸引をするのである。私が付き添いの夜など、できるだけゴロゴロさんが来ませんようにと祈ったりしていたが、しっかりと登場して、自主トレに貢献してくれた。

 

厳しい指導のかいあって!?今となっては、ごくごく自然に出来ているような気がする。

 

まさに「習うより、慣れろ」だった。

退院準備…見るとやるとは大違い

新聞記事に勇気をもらい、退院後のビジョンも浮かぶようになった。自宅に帰ってから日常生活を送るための話し合いが、何度か行われた。(主治医・病棟看護師・地域連携室・保健師・呼吸器メーカーの担当者・訪問看護ステーション)

さらにこれから在宅生活のサポートをしてくださる訪問看護師さんたちが息子の様子や入浴の仕方などを学びに数回病院に足を運んでくれた。

 

自宅はマンションで、部屋の中に階段があるような高級マンションではないので、車イスでの移動の心配は少なかった。その点は良かったのだが、今までは、息子のケアは病院の看護師さんが行っていた。これも主に両親でしていく必要があった。

 

まずは、清拭の仕方などのレクチャーを受けた。つぎに呼吸器のホースを気管へ接続するために、のど元に「カニューレ」という小さなパーツがあるのだが、そのカニューレが抜けないように固定するひもの交換、カニューレまわりの消毒・ガーゼ交換、さらに、不慮の抜去に対応できるように再挿入の仕方など、いくらでも覚えること、慣れなければならないことが山ほどあった。

 

そして事件は起こった。

 

担当看護師指導のもと、カニューレの固定ひもを交換する際、左右から引っ張り合う私と妻の力加減が分からず、すぽんとカニューレが抜けてしまった。その直後、頭の中は本当は真っ白だったが、口では「落ち着いて、落ち着いて」と言っていた。そう言っている間に妻が、看護師のアドバイスでカニューレを入れていた。「抜去してしまった際にはすばやく清潔に再挿入する」たったそれだけのことに、焦ってしまった。見るとやるとは大違いを実感した。

帰った先のビジョン…未来と希望と

3月に入ったある日、新聞を何気なく読んでいると「人工呼吸器」「地域の小学校」と言うワードが飛び込んできた。え!呼吸器付けて地域の学校って!?どういうことだ。しかもこの広島で?
実は、それまでは、ただしゃにむに家に帰りたいとは思っていたのだが、帰ったその先は、となると明確なビジョンはなかった。

 

新聞記事を食い入るように読んだ。人工呼吸器をつけていても、地域で生活し、同級生とともに学校に通い、成長できるんだよ、とそういう内容だった。そこには、未来があった。ぱーっと広がる我が家の希望があった。それがわが家とバクバクの会との真の出会いだった。

 

その少し前に、病院の医師・担当看護師から会のことは聞いていた。妻は、なんとなく気が乗らなさそうだった。あとから聞くと、付き合いがめんどくさそう、傷のなめあいをしてそう、そんなネガティヴな印象だったそうだ。しかし、この新聞記事が出た日、病院に新聞を持って行き思わず力説していた。「これは入会せにゃあ、いけんじゃろう」と。

春競馬までには退院を!

疲れ果てて眠るオヤジ
疲れ果てて眠るオヤジ

食事のことはもちろんだが、入院が長期になってくると病室ですることもなくいろいろなことに飽きてくる。本や雑誌、テレビも冬なので野球もなく、相撲も2か月に一回…。妻は編み物ばかりしていた。

 

当時はスマホはまだまだ普及しておらず、PCを持ち込んでもいなかったので、情報の入手には苦労していた。ここは、病室は、本当に世間と隔離されているな、と感じていた。このままだと本当に息子は「温室育ち」になってしまう。

 

日曜日に家族で病室に居られるが、これといってすることもない。さてどうしたものか?テレビを何気なく見ていると、

某テレビ局で毎週やっているスポーツ番組があった。貴族の嗜み、競馬である。日曜日の朝に自宅の妻に買い目を連絡し、PCでメインレースに500円づつ馬券を購入する。午後3時過ぎにドキドキしながら中継を見て、一喜一憂して帰途につく。

 

春競馬が本格化するまでには、家族みんなで家に帰りたい。

長引く入院生活…疲れる親

息子に呼吸器からエネルギーが送られ、元気になってきたが、親の方はだんだん疲れがたまっていき、普段はほとんどしない夫婦間でのささいな言い争いがたびたび起こった。

 

もう本当に息子を家に連れて帰りたいと切実に思った。

 

入院中の平日は仕事が終わると125ccバイクで約16km離れた病院に行って夕食をとり、そこから約10km先の自宅に帰るという日々が続いていた。真冬の夜にバイク移動は寒さで、心身ともに結構辛かった。

 

 食事も息子を置いて外食などできないので、何か買って持って行くことになる。コンビニ弁当は1週間で飽きてきて、栄養のバランスも悪く、経済的にもキツい。(T_T) 病室にお好み焼き、カレー、ハンバーガー、丼もの、寿司など色々なものをデリバリーしてもらった。これもまた栄養のバランスが悪く、経済的にもたいへんキツい。妻は野菜不足をことのほか心配していて、何とか野菜を摂ろうと苦労していた。

新生ザク!選択した先にあった息子の笑顔

手術を終えて、呼吸器とパイプをつけた息子が病室に戻ってきた。呼吸器から送り出される空気の音が思っていたよりも大きかった。

 

生きている証の音だと思った。

 

麻酔から醒めた息子は、顔色もよく、私と妻の顔を見つけて ニコっと笑った。嬉しかった。救われた気がした。

 

ずっと後になって、ALS患者の三保さん(広島在住の現役歯科医・アクティブ親父)が手記の中で、『人工呼吸器を装着して約10ヶ月がたつが、私の人工呼吸器ライフはそれまでの心配が嘘のように快適なもので、自分でも感じる程にエネルギーに満ち溢れている。同期の内科医の何人かが「人工呼吸器を装着すると地獄のような暮らしだぞ。」 と私に忠告したものだが、そんなことはない。 人工呼吸器を装着してからというもの、病状の進行はピタリと止まった。 いや、むしろ好転したと感じる。 誤嚥が怖くて諦めていた食事に再挑戦したり、諦めていたお洒落を楽しんだり、すべての面で「復活」した』と書いておられるのを読み、 あの時の選択は間違っていなかったと実感した。(JALSのHPより引用 ぜひ全文お読みいただきたい http://alsjapan.org/2016/11/15/post-673/

 

息子はグングン元気になっていった。パイプからエネルギーを得ている点は、『ガンダム』に出てくるザクみたいでいいじゃないか、けっこうかっこいいぞと個人的に思っていた。

我 事において後悔せず

人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える
人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える

こんなパイプや管をつけて、まともな生活が送れるのだろうか? しんどい思いをさせても、病院の中だけで過ごすしかないのか? それでも命ある限り、生きてほしい。

 

入院時、日曜日から金曜日は妻が病院で付き添い、土曜日の夜は、妻と交代し私が息子と一緒に、病院のベッドで眠った。彼の頭をなでながら、何度も尋ねた。どうしたらいいのか?と。

妻とも話し合いを重ね、医療関係者にも質問した。在宅で暮らせるのかどうか?最終的にはここが一番のポイントだった。 主治医から、「在宅で生活できる。ただし条件をクリアしてもらいますが」と力強く告げられ、人工呼吸器の装着を決意した。

 

『我 事において後悔せず』

新たな目標に向かって、親子三人決意をした。そのとき、私は宮本武蔵のこの言葉を思い浮かべていた。 「人工呼吸器をつけた事に、後悔しない」 腹をくくって、手術に臨んだ。

親になって1年、重すぎる選択がやってきた

入退院の繰り返しで、ICUに入っては挿管される日々が1か月続いた。

 

息子は口から管を入れられているので、喉が荒れてしまい、声もガラガラだった。この間マスク式の呼吸器も試してみたが、うまく行かなかった。顔もマスクを固定させるテープでかぶれてしまった。

 

状態はいっこうにに良くならず、2月になり主治医より気管切開を勧められる。喉に管を通して、常時機械で呼吸管理をすることになると説明され、声を出すことはできないとも言われた。そして、それをしなければ、遅かれ早かれ呼吸不全での看取りを覚悟してください。

 

親になって一年ちょっとでの重すぎる選択。

 

何がこの子にとっての一番良い選択なんだろう? 人工呼吸器って何? 見たこともない。そもそも延命のために無理やり使う道具じゃないのか? そんな思いがグルグル頭の中を駆け巡る。

 

インターネットで調べてみる。箱?あるいは百科事典?にホースがついたシロモノにしか見えなかった。

呼吸器ってなんだ? リアルティのなさすぎるドラマの始まり

うちの息子は人工呼吸器をつけて生活している。

 

彼が生まれて、半年ほどたったころ、フォローアップの医師から「リー脳症の疑いがある。この子はながく生きられないかもしれない」と聞かされ、妻ともども目の前が真っ暗になった。

 

今、目の前で寝返りしているこの子が、動けなくなって呼吸もとまる。いまどき、ドラマでもリアリティがなさすぎるだろ?

 

とは言え、これが現実だった。それからは、家族3人の時間をしっかり過ごそうという思いだけだった。1歳の誕生日間際になると、急に呼吸停止の発作が起き始める。チアノーゼで真っ青な息子の顔はとても正視できなかった。