はじめどんのつぶやき

 広島市生まれ

しがないサラリーマン

妻とは大学時代に出会う

ビールと家族をこよなく愛している

好きなもの 仏像・城・カープ・ガンダム・相撲

キライなもの 段差



風を感じて

 先日、私の所属する職場の営業関係の総決起集会があり野田聖子総務大臣が出席し、講話があった。冒頭、自身の息子さんのことを語られ、気管切開をして、人工呼吸器や胃ろうにも触れ医療的ケア児が家の近くの学校に通えないのはおかしい。これを何とかしたい。党の枠組みでなく政治家としての思いを語られた。今回は社員の激励と言う名目であったが、冒頭この話があり正直驚いた。

 

 この様子をLINEで妻に送ると「バクバクの会のはじめどんです!うちの子も医療的ケア児です!と、大声で叫べ!」と無茶ぶりをされましたが、さすがに大臣ともなると屈強そうなSPがべったり2人もついていて、怖くて声をかけるなんてとんでもないことだし、すぐに帰られたので、果たせずだった。

 

 しかし、本題はこの後である。懇親会の歓談の中で、何人もの人が「たしか、お子さんは地域の学校行ってたよね」とか「もう何年生になったかね」とかいろいろ聞かれ、そのたびに「ええ、地域の普通学級に毎日通学しています、3年生になりました」と話した。 

 

 毎年の年賀状・暑中葉書で、まわりの人に、報告してきた草の根的な細々とした活動の成果もちょっと感じたりもしたが、今回の野田大臣が医療的ケア児についてお話されたことで、世間の目も少しづつこちらに向き始めているのかなと感じた。行くまでは、3連休の頭にかったるいな、という気持ちで出席した決起集会であったが収穫があって良かった。

 

 遅々とした歩みではあるかもしれないが、確実に風は吹き始めている。

もっと家庭からインクリュージョンを

先日、とある重度障害児・者福祉医療施設から「家族介助者教室」の開催のお知らせが届いた。

 

数週間前にここのフェスに参加して、いろんな取り組みをされていることを実感し、バクバクの会としても連携していけたらという感触を持った施設であったので、ちょっと行ってみるかと、日時を確認すると平日開催となっている。土日休みの私は「行かれへんやないかーい」と、軽いノリで突っ込んではみたが、心にはモヤモヤしたものが残った。

 

「家族教室」をうたいながら、主催者は無意識なのだろうが、大多数の平日昼間に仕事をしている父親のことを、結果として「排除」しているように感じられる。これはこの催しに限ったことではなく、「重症児保護者交流会」や「相談会」などによくみられる傾向である。

 

実はこの無意識のうちの排除こそが根が深い。うがった見方をすれば、「重症児・者のケアは母親とは限らないが、平日家にいるものがするもの」という意識があるのかなと感じてしまう。

 

往々にして感じていることだが、息子と一緒に何かしていると、「協力的なお父さんでいいですね、すごいですね」と言われることがある。実際のところ協力的な父親が少ないのかもしれないけれど、私は子育てや家のことに関して、妻協力しているのであって、妻協力しているのではない。

 

社会の側にも家庭の中にも子育てや介護はおもに母親の仕事、と思い込んでいないだろうか?インクルーシブな社会を目指すにはまず家庭内のインクリュージョンも必要じゃないかなと感じる。

ロングドライブⅡ

昼食の後は天気も良かったので、近くの日本庭園「三景園」へ行くことにした。

 

広島空港開港を記念して1993年に造られた面積約6ヘクタールの築山池泉回遊式庭園。比較的新しくできた施設なのでバリアフリー化されてるかなーと思い、行ってみる。

 

メインの通路はよかったのだが、少しわきにそれると砂利道だったり砂地だったりでバギーの車輪をとられてしまいなかなか大変だった。息子と出かける中で、今後もこんなことが数多く出てくるだろうなと予想された。

 

初夏の花々や新緑に癒され、大きな池には鯉がたくさんいて、息子もじっと眺めていた。コーヒーを飲んだりしてのんびり過ごして、気づくと結構な時間が経過していた。

 

呼吸器の残りバッテリーが心もとなくなってきて大慌てで勝手に空港ロビーで充電する。在宅生活初心者の我が家は専用バギーもなく、電源もなくかなりの無茶をしていた。それもこれも在宅で息子が元気になっていることに何とか応えてやりたいという想いと、妻の実家である奈良へ車で行けるのかどうかという不安があったように思う。

 

外出を重ねることで、問題点もわかり、気を付けることもわかるようになった。

ロングドライブⅠ

我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
我が家のインバーター  外出時の強力な助っ人
空港にて
空港にて

在宅生活1か月過ぎたあたりから車で病院以外のところにも行くようになった。

 

息子はこれまで電車や船には乗ったことがあり、今回はまだ乗ったことのない飛行機を見に行くことにした。

 

家から空港まで高速道路を使って約1時間。その往復の2時間とランチや見学時間を含めても、呼吸器の内部バッテリー(3時間半)、外部バッテリー(3時間半)合計7時間もあれば、まったくの余裕だろうと計算して家を出発した。

 

当時我が家の車にはインバーターと言う車の電源を家庭用の電源に変換するモノもなかったくせに「充電が必要なら、空港のどこかでコンセントを借りればいい」くらいの軽い気持ちだった。

 

因みに高速道路の渋滞など全く考慮していない無謀なドライブだった。今思うと冷や汗ものだが、当時は外に出たい思いでいっぱいだったのかなとも思う。が、今でも時々このときのことを思い出しては、くれぐれも無謀なことはしないようにかなりの電源的ゆとりを持つように、と猛省している。

 

道中は呼吸器をつけた息子と初めての高速道路で少し緊張したが、快適なスピードでトラブルもなく空港まで。到着までは眠っていた息子だが、デッキへ行くと飛行機の甲高いエンジン音に目を覚まして、青空へ飛び立っていく飛行機や舞い降りてくる飛行機を不思議そうに眺めていた。

 

つづく

マーゲンチューブ哀歌Ⅱ

わが家ではこの儀式は日曜の午後3時となぜか決まっていた。その時が近づくと、家族全員、憂鬱な気分になった。

 

鼻チューを抜くのはすぐ抜けるのだが、入れるのはなかなか入らない。ひとりが息子の頭を押さえつけて、動かないようにし、もうひとりが息子の上にまたがって、片方の鼻の穴から、鼻チューを入れる。

 

これだけのことだが、一方は逃れようと精いっぱい抗い、かたや、彼を動かないように必死で押さえる。失敗すると、反対の鼻の穴から鼻チューが出てきて、ドキッとする。

 

痛くて気持ち悪いのだろう、鼻から入れる胃カメラのような感覚だと思う。後にバクバクの先輩平本歩さんも著書『バクバクっ子の在宅記』(現代書館2017/8/15発行絶賛発売中)に「痛かった、涙が出た」と書かれていて実際に、自分で体験してみようとしたが、やらなくてよかった。息子よスマン。

 

とにかく毎回、双方、汗だくの攻防であった。最後に、マーゲンチューブの先が、胃に届いているかどうか、シリンジで実際に空気を入れて聴診器で確かめる。きちんと胃に到達していれば、空気を入れたとき、バフっと音が聞こえる。ちゃんと入っている音を聞くまで悪戦苦闘していたのが、今となってはいい思い出だ。

 

今、息子は胃ろうというシステムを採用しているので、このいさかいの元の鼻チューとは3歳でおさらばした。

 

またその話は、別の機会ということで。

マーゲンチューブ哀歌Ⅰ

在宅生活に移行し、医療的ケアも自分たちで行うようになった。ケアの横綱が痰の吸引とするならば、大関は経管栄養になるのではないだろうか?

 

息子の場合は、在宅当初、鼻からマーゲンチューブという細い管を胃まで入れてそこから栄養や薬・水分を摂取していた。

 

普段は鼻の穴から、マーゲンチューブ(うちの家では鼻チューブを略して、鼻チューと呼んでいた)だけの状態となる。抜け落ち防止のため鼻や頬にテープで固定する。

 

病院などでは固定テープを看護師さんがアニメキャラクターや動物のイラストなど描いて、可愛くアレンジしてくれていた。が、私とすれば、パッと顔を見たとき、このマーゲンチューブが目立つあまり、ともすれば人工呼吸器よりも、重病感を醸し出すような気がして、どうも好きになれなかった。

 

また息子からすれば常時鼻の穴からチューブがぶら下がっているので、気になって触ってしまう。朝ご飯支度の後、我々親が二度寝をしたすきに、息子が自分でこの鼻チューを引き抜いてしまったことがあり、ベッド中が栄養剤まみれになっていて、起きたとき気づいて途方に暮れたこともあった。

 

そんな鼻チューの交換が1週間に一回あるのだが、(あと、薬などが詰まるとこれまた入れ替えが必要となる)これが、親子お互いにとって苦行と言うか地獄と言うか、親子間の戦争、そんな有様だった。

お花見散歩

退院した翌日には、これまでの入院生活でなかなかできなかった、息子と外出することにした。これにはベッドから息子と呼吸器をベビーカーに載せる訓練の意味合いもあった。

 

息子が乗るベビーカーに、全部の装備は積み切らなかったため、念のため持ち歩く酸素ボンベは、別に荷物カートに載せて、ベビーカーを押していない私が、ころころと転がして歩く。

 

外出には、やはり当面2人以上の人の手が必要だ。

 

近所の川べりの桜が満開だったこともあり、春風の中を出発した。息子もベビーカーの手すりに足をかけてご機嫌だった。

 

しかし、すれ違う人、こども達の好奇な視線や憐れみの視線そんなものに直面する。こちらに何の免疫もないため正直辛かった。

だからといって家に閉じこもっているのも変だと感じていた。後々いろいろな経験を通してうまく説明できるようなったが、これはかなりのストレスを感じた。

 

ハード面、ソフト面、両方のトレーニングということもあり、妻と話し合って、これからはなにもないかぎりは、できるだけ、週末土日のどちらかはおでかけをしようということになった。

退院の日

在宅生活に向けて、さらに数回のカンファレンスがあり、ついに退院の日が決まった。退院は決まったものの、在宅生活は、ほぼ手探りの状態だった。

 

ここで夫婦間での役割分担を明確にした。

制度面や行政の手続きなどは私がやり、訪問看護さんヘルパーさんなどの関係は妻が担当することになった。

 

仕事柄、申請など書類仕事はやりなれてるから、まあ、私のほうが適任だろう、それほど面倒はなかろうと思っていたがこれがなかなか大変で…この話はまた後ほど。

 

春だ。4月に入り桜も咲き始めていた。

そして待ちに待った退院の日を迎える。

 

さんざんお世話になった病棟の先生や師長さん看護師さんたちと記念撮影をして、自宅に帰ってきた。マンションの駐車場では、これからお世話になる訪問看護ステーションの所長さんがすでに待ち構えてくださっていた。これからは両親だけでなくいろいろな人の知恵やパワーを集結して、ここで生活していくんだなーと思った。

 

久々の自宅に息子はどう感じていただろうか?

ドキドキ外泊

アラームの音は注意喚起のためもあり不安になるような音であるが、初めて自宅で聞くアラーム音はことさらドキッとさせられた。原因は夜中に吸引したあと、カニューレとフレキシブルチューブの接続が甘かったことにより、接続部分が外れかけていたことだった。気をつけているつもりでも、このようなことが起こってしまうのだなと改めて反省した。

 

そんなヒヤリハット体験をしたが、あっという間に時間は過ぎて病院へ戻るときが来た。車へ乗せる時や、機器のセットを病院を出るときよりも慎重に慎重に行った。何事もなく病院に戻ることができたときには、正直ホッとした。息子の状態は、安定していたものの、両親は精神的にも肉体的にもヘトヘトだった。

 

 しかし自宅に帰れたことは大きな自信となった。

 

こうして、ドキドキ外泊を無事終えることができた。

我々は帰ってきた

帰ってきた。

一時外泊とは言え、夢にまで見た自宅に帰ってきた。息子にとっても久々の自宅。

 

家族3人、自宅に無事たどりついて、移動時の不安からは解放されたが、まだ何が起こるかわからない状況には変わりない。

というか、それどころか仮に何か起こっても、主治医も看護師さんもいない。自宅に帰って家族で一緒に生活する。その想いはあったし、そのつもりで訓練もしてきた。しかし、いざ現実に在宅生活が目の前に迫り、そのプレッシャーは想像を絶するものがあった。

 

ともあれ、自宅に帰り、息子の状態も落ち着いて、一家だんらんの時をすごした。うれしかった。これで何とかやっていける。夜は心身の疲れですぐ眠ってしまった。

 

しかし、翌朝呼吸器からアラームが鳴り響く。

ついに外泊へ!

院内外泊を無事に終えると、遂に主治医から外泊OKの許可をいただいた。

 

呼吸器の乗せられるベビーカーがなかったので、急遽イオンなどで探す。もちろん両親二人が病室を離れるわけにいかないので、かわるがわる見に行き、検討し、購入した。また息子が、昼間リビングで過ごすためのスペースとして、ユニット畳に落下防止用のガードを自作する。

 

いよいよ自宅への外泊。呼吸器メーカーの方が車で付いて来てくださり、息子を乗せて自宅へ向かっている途中で事件が起こった。

 

突然呼吸器からアラーム音が鳴り響く。

 

アラームの音に連れて、体内の酸素濃度がどんどん下がってきたようで、息子の隣に座っていた後部座席の妻が慌てている。車を安全なところに停めて、様子を見る。どうやら人工鼻(という加湿器の代わりとなる部品・通常、回路の途中にはめこむ)がうまく機能していないことを呼吸器メーカーの方が指摘してくれて発覚し、人工鼻を外すことによって、とりあえずの事なきを得た。(この場合、自宅に到着するとまた加湿器に繋ぐことができるため、15分ほどの離脱で済んだが、この状態で長時間過ごすと、気道内が乾燥し、痰が粘っこくなり、閉塞の危険性もある)

 

しかし何が起こるかわからないということは十分にわかった。

 慎重な運転で、自宅にたどり着いたときにはホッとした。

院内外泊の効果

 『院内外泊』聞きなれない言葉だが、病院内にいながら外泊と同じ状態で過ごすことである。

 

退院準備の一環で、まずは病室内で、本当に緊急的な必要な時以外は医療関係者は一切来ない、いわば自宅と同じ環境にして、きちんと家族だけで生活できるかという訓練である。

 

これまで教えて頂いた、医療的ケア、痰の吸引、経鼻栄養の注入、万が一カニューレやマーゲンチューブ(鼻から胃へ通しているストロー状のもの)が抜けてしまったときの対処法等頭の中を整理した。

 

不安な気持ちはもちろんあるが、それを小脇に抱えて「自分たちはやれる」と自己暗示をかける。一つ一つハードルをクリアしなければ、息子と一緒に家で生活できないと思い、必死だった。

 

そんなこんなで迎えた院内外泊であったが、大きなトラブルなく乗り切ることができた。ひさしぶりの家族水入らずの1日を楽しむという余裕はまったくなくて、夫婦ともども緊張と達成感でへとへとになったことをよく覚えている。

今となっては、当時は随分力んでいたなぁと思うが、不安をつぶしていくには院内外泊の効果は絶大だった。

習うより慣れろ

身の回りのケアの仕方も覚えつつ、息子が家に帰るために避けては通れない医療的ケア。その筆頭ともいえるのが、たんの吸引。

 

病院で看護師さんが実施する場合は、滅菌手袋を取り出すところから始まり、個装の水の封を切ったり、カテーテルの開封など、その都度その都度やることが多い。自分がやるとなると、こんなにたくさんのことをやっていると、息子がゴロゴロ(我が家では痰のことをゴロゴロさんという愛称で呼んでいる)と痰が上がってきていても、すぐに吸引して、すっきりさせてやれないんじゃないかと、不安になった。

 

今までの人生で、カニューレから蛇管を外して痰の吸引なんて、見たことも聞いたこともない未知なるもの。(息子が呼吸器をつけてから見聞きすることのほとんどがそうなのだが)両親が吸引に慣れるためには、不安であろうが、練習をしなければならない。ゴロゴロ言い出すと、看護師さんを呼んで、目の前で見てもらいながら、吸引をするのである。私が付き添いの夜など、できるだけゴロゴロさんが来ませんようにと祈ったりしていたが、しっかりと登場して、自主トレに貢献してくれた。

 

厳しい指導のかいあって!?今となっては、ごくごく自然に出来ているような気がする。

 

まさに「習うより、慣れろ」だった。

退院準備…見るとやるとは大違い

新聞記事に勇気をもらい、退院後のビジョンも浮かぶようになった。自宅に帰ってから日常生活を送るための話し合いが、何度か行われた。(主治医・病棟看護師・地域連携室・保健師・呼吸器メーカーの担当者・訪問看護ステーション)

さらにこれから在宅生活のサポートをしてくださる訪問看護師さんたちが息子の様子や入浴の仕方などを学びに数回病院に足を運んでくれた。

 

自宅はマンションで、部屋の中に階段があるような高級マンションではないので、車イスでの移動の心配は少なかった。その点は良かったのだが、今までは、息子のケアは病院の看護師さんが行っていた。これも主に両親でしていく必要があった。

 

まずは、清拭の仕方などのレクチャーを受けた。つぎに呼吸器のホースを気管へ接続するために、のど元に「カニューレ」という小さなパーツがあるのだが、そのカニューレが抜けないように固定するひもの交換、カニューレまわりの消毒・ガーゼ交換、さらに、不慮の抜去に対応できるように再挿入の仕方など、いくらでも覚えること、慣れなければならないことが山ほどあった。

 

そして事件は起こった。

 

担当看護師指導のもと、カニューレの固定ひもを交換する際、左右から引っ張り合う私と妻の力加減が分からず、すぽんとカニューレが抜けてしまった。その直後、頭の中は本当は真っ白だったが、口では「落ち着いて、落ち着いて」と言っていた。そう言っている間に妻が、看護師のアドバイスでカニューレを入れていた。「抜去してしまった際にはすばやく清潔に再挿入する」たったそれだけのことに、焦ってしまった。見るとやるとは大違いを実感した。

帰った先のビジョン…未来と希望と

3月に入ったある日、新聞を何気なく読んでいると「人工呼吸器」「地域の小学校」と言うワードが飛び込んできた。え!呼吸器付けて地域の学校って!?どういうことだ。しかもこの広島で?
実は、それまでは、ただしゃにむに家に帰りたいとは思っていたのだが、帰ったその先は、となると明確なビジョンはなかった。

 

新聞記事を食い入るように読んだ。人工呼吸器をつけていても、地域で生活し、同級生とともに学校に通い、成長できるんだよ、とそういう内容だった。そこには、未来があった。ぱーっと広がる我が家の希望があった。それがわが家とバクバクの会との真の出会いだった。

 

その少し前に、病院の医師・担当看護師から会のことは聞いていた。妻は、なんとなく気が乗らなさそうだった。あとから聞くと、付き合いがめんどくさそう、傷のなめあいをしてそう、そんなネガティヴな印象だったそうだ。しかし、この新聞記事が出た日、病院に新聞を持って行き思わず力説していた。「これは入会せにゃあ、いけんじゃろう」と。

春競馬までには退院を!

疲れ果てて眠るオヤジ
疲れ果てて眠るオヤジ

食事のことはもちろんだが、入院が長期になってくると病室ですることもなくいろいろなことに飽きてくる。本や雑誌、テレビも冬なので野球もなく、相撲も2か月に一回…。妻は編み物ばかりしていた。

 

当時はスマホはまだまだ普及しておらず、PCを持ち込んでもいなかったので、情報の入手には苦労していた。ここは、病室は、本当に世間と隔離されているな、と感じていた。このままだと本当に息子は「温室育ち」になってしまう。

 

日曜日に家族で病室に居られるが、これといってすることもない。さてどうしたものか?テレビを何気なく見ていると、

某テレビ局で毎週やっているスポーツ番組があった。貴族の嗜み、競馬である。日曜日の朝に自宅の妻に買い目を連絡し、PCでメインレースに500円づつ馬券を購入する。午後3時過ぎにドキドキしながら中継を見て、一喜一憂して帰途につく。

 

春競馬が本格化するまでには、家族みんなで家に帰りたい。

長引く入院生活…疲れる親

息子に呼吸器からエネルギーが送られ、元気になってきたが、親の方はだんだん疲れがたまっていき、普段はほとんどしない夫婦間でのささいな言い争いがたびたび起こった。

 

もう本当に息子を家に連れて帰りたいと切実に思った。

 

入院中の平日は仕事が終わると125ccバイクで約16km離れた病院に行って夕食をとり、そこから約10km先の自宅に帰るという日々が続いていた。真冬の夜にバイク移動は寒さで、心身ともに結構辛かった。

 

 食事も息子を置いて外食などできないので、何か買って持って行くことになる。コンビニ弁当は1週間で飽きてきて、栄養のバランスも悪く、経済的にもキツい。(T_T) 病室にお好み焼き、カレー、ハンバーガー、丼もの、寿司など色々なものをデリバリーしてもらった。これもまた栄養のバランスが悪く、経済的にもたいへんキツい。妻は野菜不足をことのほか心配していて、何とか野菜を摂ろうと苦労していた。

新生ザク!選択した先にあった息子の笑顔

手術を終えて、呼吸器とパイプをつけた息子が病室に戻ってきた。呼吸器から送り出される空気の音が思っていたよりも大きかった。

 

生きている証の音だと思った。

 

麻酔から醒めた息子は、顔色もよく、私と妻の顔を見つけて ニコっと笑った。嬉しかった。救われた気がした。

 

ずっと後になって、ALS患者の三保さん(広島在住の現役歯科医・アクティブ親父)が手記の中で、『人工呼吸器を装着して約10ヶ月がたつが、私の人工呼吸器ライフはそれまでの心配が嘘のように快適なもので、自分でも感じる程にエネルギーに満ち溢れている。同期の内科医の何人かが「人工呼吸器を装着すると地獄のような暮らしだぞ。」 と私に忠告したものだが、そんなことはない。 人工呼吸器を装着してからというもの、病状の進行はピタリと止まった。 いや、むしろ好転したと感じる。 誤嚥が怖くて諦めていた食事に再挑戦したり、諦めていたお洒落を楽しんだり、すべての面で「復活」した』と書いておられるのを読み、 あの時の選択は間違っていなかったと実感した。(JALSのHPより引用 ぜひ全文お読みいただきたい http://alsjapan.org/2016/11/15/post-673/

 

息子はグングン元気になっていった。パイプからエネルギーを得ている点は、『ガンダム』に出てくるザクみたいでいいじゃないか、けっこうかっこいいぞと個人的に思っていた。

我 事において後悔せず

人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える
人工呼吸器 箱からホースが出ているように見える

こんなパイプや管をつけて、まともな生活が送れるのだろうか? しんどい思いをさせても、病院の中だけで過ごすしかないのか? それでも命ある限り、生きてほしい。

 

入院時、日曜日から金曜日は妻が病院で付き添い、土曜日の夜は、妻と交代し私が息子と一緒に、病院のベッドで眠った。彼の頭をなでながら、何度も尋ねた。どうしたらいいのか?と。

妻とも話し合いを重ね、医療関係者にも質問した。在宅で暮らせるのかどうか?最終的にはここが一番のポイントだった。 主治医から、「在宅で生活できる。ただし条件をクリアしてもらいますが」と力強く告げられ、人工呼吸器の装着を決意した。

 

『我 事において後悔せず』

新たな目標に向かって、親子三人決意をした。そのとき、私は宮本武蔵のこの言葉を思い浮かべていた。 「人工呼吸器をつけた事に、後悔しない」 腹をくくって、手術に臨んだ。

親になって1年、重すぎる選択がやってきた

入退院の繰り返しで、ICUに入っては挿管される日々が1か月続いた。

 

息子は口から管を入れられているので、喉が荒れてしまい、声もガラガラだった。この間マスク式の呼吸器も試してみたが、うまく行かなかった。顔もマスクを固定させるテープでかぶれてしまった。

 

状態はいっこうにに良くならず、2月になり主治医より気管切開を勧められる。喉に管を通して、常時機械で呼吸管理をすることになると説明され、声を出すことはできないとも言われた。そして、それをしなければ、遅かれ早かれ呼吸不全での看取りを覚悟してください。

 

親になって一年ちょっとでの重すぎる選択。

 

何がこの子にとっての一番良い選択なんだろう? 人工呼吸器って何? 見たこともない。そもそも延命のために無理やり使う道具じゃないのか? そんな思いがグルグル頭の中を駆け巡る。

 

インターネットで調べてみる。箱?あるいは百科事典?にホースがついたシロモノにしか見えなかった。

呼吸器ってなんだ? リアルティのなさすぎるドラマの始まり

うちの息子は人工呼吸器をつけて生活している。

 

彼が生まれて、半年ほどたったころ、フォローアップの医師から「リー脳症の疑いがある。この子はながく生きられないかもしれない」と聞かされ、妻ともども目の前が真っ暗になった。

 

今、目の前で寝返りしているこの子が、動けなくなって呼吸もとまる。いまどき、ドラマでもリアリティがなさすぎるだろ?

 

とは言え、これが現実だった。それからは、家族3人の時間をしっかり過ごそうという思いだけだった。1歳の誕生日間際になると、急に呼吸停止の発作が起き始める。チアノーゼで真っ青な息子の顔はとても正視できなかった。